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SUMA STORY


<ギター人生の個人的遍歴>

by KUNIO SUMA 

 

 
 

少年期

1966-1967

 

 小学5年の初夏、隣のお兄さんの家からミョーな音が聞こえてくる。それを見に行った私はそこで初めてエレキギターと対面。来る日も来る日も音がする度に出かけて行ったある日、そのお兄さんから遂にそれを渡され初めて抱き抱えた。「太い弦を引いた後に人さし指でここ、つぎに中指でここ、もう一度人さし指でここ...。」それは紛れもないベンチャーズの名曲「パイプライン」の最初の部分だった!もう戻れなかった。

 親父と一緒にGマークの入った古くさいエレキギターを7000円で買ってもらった。それもあやしい質屋で。それと共にレコード店でベンチャーズの4曲入りEPを購入し、とにかく聞いては弾き聞いては弾きの毎日。譜面などという高尚なものは存在していなかったし、音そのものがあればそれで十分だった。

 平行して世間はアイドルグループ全盛の時代を迎え、海外ではビートルズ、ローリングストーンズ、国内ではスパイダース、タイガース、テンプターズ...。地元でジャガーズのサイン会に出かけたりした。お気に入りはタイガースの「ヒューマンルネッサンス」。これは私が初めて買ったLPで、そのけだるい世界に圧倒された。もちろん聞いては弾きの生活は習慣になっていた。

 

 

 

バンド結成

 

 その年の冬休み、同級生と二人組のバンドを結成。「ザ・ネイビーズ」と名付けた。ドラムは特殊な楽器なので誰も出来なかった。しかたなくまたしても親父を説得し、例の怪しい質屋で15,000円のドラムセットを購入。ギターをドラムに代えて聞いては叩きの生活となった。(隣近所の迷惑などお構いなしで...。)

 

「モンキーズのテーマ」は初めてバンドで合わせた記念碑的曲だった。姉の同級生の5人組み不良バンドと出会い、そこで初めてローリングストーンズの「黒くぬれ!」を聞き衝撃を受けた。そのバンドは当時ヤマハ製の極上のキーボードを持っていて、完璧にストーンズを演奏しお祭りに華を添えていた。彼等のレパートリーの中にはプロコルハルムの「蒼い影」も入っていた。

6年生の時、ビートルズが来日。バンドの友人と校舎の屋上で「ビートルズなんて女の聞くもんだぜ」などと、マジで思っていたがその後、友人の兄のビートルズマニアから「サージェントペパーズ」と「バックインザUSSR」を聞かされ、何とも言えない感覚に翻弄された。しかし「女の聞くもん」(軟弱な音楽という意味の男尊女卑的差別用語)は依然として心の中にあった。

 
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中学生-1

1968

 

 中学1年の時、レコード店で金色に輝くジャケットが目に入った。それがクリームとの出会いだった。1曲目「クロスロード」はいままでの全てが霞む衝撃でテクニックの重要性を初めて知ったアルバムだった。これを境にギターアドリブに開眼し夢中でクラプトンのソロを追っかけ始めた。ジミ・ヘンドリックスの「フォクシーレディ」が入った4曲入EPを購入し、そのステレオ感に困惑した。また、ディープ・パープルの「ケンタッキーウーマン」「ハッシュ」のEP、クリームの「サンシャインラブ」のEPを聞き情勢が緊迫している事を知った。友人がサイケデリックなしぼり柄のステージ写真のアルバムを興味本位で購入。それがアイアン・バタフライとの出会いだった。B面をすべて使った「In A Gadada-vida」はたちまちレパートリーの対象になり、メンバー全員夢中になった。同時にバニラ・ファッジの「ニアザビギニング」もメンバーの一人が購入してきて、やはりB面すべてを使った「イーブンソング」は当時ドラマーも兼任していた私にはモノにしなければならない作業だった。もっとも難解すぎてレパートリーにはならなかったが...。

 
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中学生-2

1969

 

 

 中学2年の時、ひと山超えたあたりに住居を移し、リハーサルもアンプをリヤカーで運ぶという試練に苛まれた。バンド仲間が持ってきたレッド・ツェッペリンの1stアルバムの衝撃は想像を絶するものだった。

1曲目「グッドタイムス・バッドタイムス」のドラムは私に課せられた課題だと真剣に受け止め日夜右足の上達に心掛けた。同時にジミー・ペイジのギターの習得もこなした。また、「スーパーセッション」というアル・クーパー、マイク・ブルームフィールド、スティーブン・スティルスのLPも好きな作品の一つだった。(このLPの論文コンテストに応募し落選した記憶がある。)

 

この年の終りに1つ年上の先輩をドラマーに迎え、私は晴れてギターに専念できるようになりツェッペリン、グランド・ファンク・レイルロードなどのレパートリーを広げた。

 
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中学生-3

1970

 

 

 中学3年の時、グレコギター主催の東京Aロックコンテスト出場。第1回目の第1番目に出演した。坊主頭の私たちのようなバンドは廻りの共演者や開催スタッフからは全然相手にされなかったが、私たちの演奏が終わった後の会場のリアクションの凄さに驚いた。同時に審査員の成毛滋氏がステージ上に走ってきて私にジミー・ペイジの指運法を伝授したのだった。

 その時の審査員は当時結成したばかりのスーパーバンド「フライトエッグ」で、つのだひろ氏や高中正義氏があたっていた。因に私たちの演目はツェッペリンの「胸いっぱいの愛を」とモップスの「ええじゃないか」をアレンジしてくっつけたヤツだった。その当日夜は地元のディスコで仕事が入っていたので私達の演奏終了後早々と帰宅してしまったが、後日ギブソンSGタイプのグレコギターが送られてきた。審査員特別賞ということだった。

 その後地元でバンド・コンテストがあり出場。富士地区から「ジェフ」という凄腕のお兄さんバンドとの一騎討ち。私たちの演目はツェッペリンの「ユー・シュック・ミー」だった。中間部のハーモニカパートは、学校で使っている2段のヤツを使い、私がコピーして演奏した。そのお兄さんバンドのギタリストは80年代に話題となった”一風堂”の土屋昌己氏だった。

 

 土屋氏が育てている弟バンドのギタリストになり沼津から富士へ通い始める。富士のバンドでは、当時発売したばかりのアル・クーパー&マイク・ブルームフィールドの「フィルモアの奇蹟」がブームだった。その中の数曲やオーティス・レディングのR&Bの名曲等を演奏した。風土的なものだろうが、富士は沼津の音楽シーンとは違った、少々レイドバックしたものだった。しかし富士出身の土屋氏は当時から画期的なギタリストだった。ピアノも旨く前衛的でピンク・フロイドと同じエコーチェンバーをかましステージを飛び跳ねギターを叩きつぶしていた。私は彼からジェフ・ベックを聞くように言われ「ベックオーラ」と「トゥルース」を購入。しかし私にはブルース寄りのベックよりエレクトロニクス寄りのペイジの方がなじんでいる気がした。

 その時期のフェイバリット・バンドとしてフラワー・トラベリング・バンドが上げられる。登校直前の7:20分から始まるTV番組「おはよう720(セブン・ツー・オー)」でのフラワーズの「21世紀の精神異常者」(後々までフラワーズのオリジナル曲と思っていた)は遅刻も怖くないほど画面に釘付けになった。その後のアルバム「さとり」では世界に通用するオリジナリティの塊のような熱い演奏にのめり込んだ。テクニック的には問題はなかったので全曲コピーして沼津のバンドで演奏した。ボーカルのキーも自分に合っていたので歌いながら演奏した。

 
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高校時代

1971-1973

 

 高校は土屋氏推薦の日大三島高校へ進学。以前にも増してギターと接する時間が多くなる。御殿場の米軍ディスコなどの仕事で飛び回る毎日だった。土屋氏といえば卒業後日大放送学科へ進学。東京へ出てしまったので地元の残りのメンバーと合体して8人編成のサンタナのコピーバンドを結成。映画ウッドストックでやった「魂の叫び」を初め、レパートリーを徐々に増やしていった。

 

 静岡でサンシャイン・フェスティバル開催。フラワー・トラベリン・バンドと、スペースサーカスという、ドラマーで活躍しているそうる透氏の初期のバンドと私たちの3バンドの共演だった。フラワーはその独特の存在感に圧倒された。サーカスのそうる氏は神童の名にふさわしいしっかりした演奏で、恐ろしくド派手なパフォーマンスが印象的だった。後日、ヤマハのPA事業部の方から、私たちの演奏を内田裕也氏が褒めていた旨を伝えられうれしかった。今でも初期サンタナのあのダイナミズムには注目している。

 

 
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第 1 期

美狂乱結成

1974

 

 高校卒業後プロを目指し当時バンドのローディだった初期美狂乱のベーシスト吉永伸二氏と共に上京した。二人のアパート暮らしはその後の美狂乱の基礎部分を形作った。南長崎での生活は途方に暮れ仕事もせずに毎日毎日ギターとベースでフレーズを作り続けていた。その時期、四人囃子の「一触即発」を聞き感性が似ているバンドだなと思った。

 

 半年後、失意の中で帰郷。二人は知り合いのつてでドラマー山田義嗣氏と出会う。彼のフェイバリットはディープパープル、ツェッペリン、ジョン・ハイズマンのテンペスト。方向性は共通だった。それに彼はバンドの仕事には事欠かないほど顔が広かった。女癖の悪さにも定評があったが...。地元の高級パブ・レストランで連日深夜2時までの仕事をこなしレパートリーはビートルズからキャプテン・ビヨンドまでと幅広く50〜60曲をこなした。その合間に東京で溜めたオリジナル曲を何曲か完成させた。

 仕事を終えた深夜、山田氏の部屋で冗談混じりに「美狂乱」というバンド名に決定し本格的に活動を始め、何本かのコンサートに出演した。当時のオリジナル曲「止まった時計」の後半は5拍子で緊張感がみなぎった代表曲だった。

 

 このメンバーで2度目の東京A・ロック・コンテストに出場。審査員は柳ジョージ氏のレイニーウッドだった。演目は前述の「止まった時計」で、トータル15分程の大作だ。今回も特別賞としてローランドのギターアンプをもらった。その後、河口湖ロックフェスティバルに参加。これは凄かった。

 当時の一流ロックバンドが一同に会したという内容で、朝から晩までバンド演奏が続いた。そこでフラワーズと2度目の共演を果たし、他にイエロー、下道、ルージュなど軟派から硬派までのバンドの中での演奏だった。私たちの演奏終了後、聴衆の一人から初めてキング・クリムゾンの名前を聞かされる。私たちの演奏がその英国バンドに酷似しているということだった。レコード店には発売直後の「ライブインUSA」が置いてあった。率直な印象は「これはバンドで出来るぞ」というものだった。かつてのレッド・ツェッペリンを聞いた時ほどのショックはなかった。

 
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  ギター奏法の確立  

 しかし、その根底に流れているのがブルースフィーリングではなかったことが唯一興味をそそられた所だった。今まで私が聞いてきたものとはその一点がはっきりと異なっていた。

 その頃、メンバーは重大な選択を迫られていた。仕事優先のドラマーと音楽性優先の私と吉永は完全に決別した状態だった。仕事をこなせばリッチな生活を送れることは確かだったが、音楽性を犠牲にしてまで続けることは私にはどうしても出来なかった。それは今でも変わらない(脅迫観念に似た)信念となって焼き付いてしまうほど強烈な出来事だった。

 当時世間は(今でもそうかもしれない)ブルースフィーリング一辺倒のバンドが横行していて、へそ曲がりな性格の私は以前にも増して変拍子とディミニッシュスケールの研究に明け暮れた。同時にチョーキングはしないと誓った。チョーキングはブルースギターの最たるものであると思ったからである。しかしブルースフィーリングを脱して方向性を定める事は容易なことではなかった。それにオリジナル曲の構成や仕上がりに行き詰まりを感じていた私にとってキング・クリムゾン(USA)は一条の光だった。「USA」、「レッド」「暗黒の世界」「太陽と戦慄」と逆順に聞き進んでいくうちに、ロバート・フリップを体内に取り込む事こそが自身の行き詰まりを解決する方法だと思うようになっていった。その時点でクリムゾン以外の音楽を聞く事は(故意に)しなくなった。

 
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まどろみ結成

1975-1976

 

 ドラマー山田と決別後、友人から日大三島の学園祭に出場した若いドラマーの事を知った。彼は高校のブラスバンドで活躍、変拍子もこなせるということを聞いて早速コンタクトを取りリハーサルに呼んでみた。とにかく変拍子がこなせることが唯一の条件だった。彼は即興で7拍子を平然と叩いてのけたのをみて即決定。長沢正昭氏が正式なドラマーとして参加することになった。同時に自身の目的を達成するため演目は全てキング・クリムゾンのナンバーと決めた。オリジナル曲が美狂乱の信条であるためバンド名を変更し臨んだ。長沢氏のアイデアによりバンド名を「まどろみ」として全員クリムゾンのコピーを始めだした。ほどなく数曲が完成。メンバーも次第にのめり込んでいった。完璧を望む私にとってバイオリン、キーボードの存在が気掛かりだったし、そこをクリアー出来ない曲は演奏していてもどかしかった。

 その頃、地元沼津には数十バンドが存在していて、ディープパープルもどき、ツェッペリンもどきは言わずもがな、私の廻りにはバンダーグラフ・ジェネレーターもどきやピンクフロイドもどきがひしめく、正しくプログレ・ワールドだった。吉田拓郎命のリック・ウェイクマンもどきなんてのもいた。その中には魑魅魍魎というその後の美狂乱に参加した佐藤正治氏のバンドもあった。

 そのバンダーグラフもどきのギタリスト贄川和彦氏が幼少の頃にヴァイオリンをやっていたということで、キーボードの鈴木収一郎氏と共にセッション的に参加してもらい数曲をレパートリーに加えた。(その模様は「まどろみライブVol.4」に収録)

 私はといえば、「宮殿」「ポセイドン」「アイランド」「リザード」という順序で聞き進んでいた。この辺りになると管楽器が不可欠となり多いに悩んだ。地元を取り仕切っている楽器店の穴久保清氏(彼には長い間お世話になった)は現役のトランペット奏者で、彼と共に友人のフルート奏者伊藤一彦氏にセッションメンバーとして参加してもらい数曲をこなした。

「風に語りて」のフルートソロ、「フォーリンエンジェル」のトランペットソロは演奏していて特に心に残った。この状態で地元のステージに数回出演。そのメロディーの美しさ、曲の良さで聴衆にはかなりのインパクトを与えたと思っている。

 

 クリムゾン・コピーの最大の難局は、楽曲としての「太陽と戦慄1」個人的には「突破口」だった。コピーそのものよりむしろ、バンド演奏において、静の部分の処理が我慢ならなかった。実際のオーバーダブ無しの彼等の生演奏に接すれば解決すると思い、そこからブートレック集めに疾走。「ライブインテキサス」を入手。音質は悪いがそれだけで十分だった。 数ヵ月後、静岡大学オールナイトロックコンサート出場。キーボード鈴木氏、バイオリン贄川氏を含む5人で臨み、例の2曲を含む数曲をほどなく演奏した。

 数日後、ヤマハ主催のドラマーズ・チャンピオンシップ・コンテスト出場。演目は「グレートデシーヴァー」の後半にオリジナル・パートをくっつけたヤツだった。ドラマー長沢氏が特別賞を受賞した数日後、地元ラジオ局でその模様がオンエアーされた。演奏といい録音といいボーカル以外は紛れもないキング・クリムゾンだった。(受信状態が悪かった事が一層拍車をかけていた!)そのテープは今聞いても素晴しいダイナミズムに溢れている。(この録音は、まどろみ「ハーデストライブ’76」に収録されている。)

 
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まどろみ解散

1977

 

 その時代の出来事として最も印象深い事はフュージョンの台頭であった。

私の廻りのそれこそ誰も彼もが一斉にフュージョンに注目した。ギタリストはリー・リトナー、ベーシストはジャコ・パストリアス、ドラマーはスティーブ・ガットと化したのであった。まどろみの長沢、吉永でさえ。そこにあるのは精神の部分を排除した肉体だけの音楽。リズムとノリだけで作り上げられた代物(語弊はあるが少なくとも私は今でもそう信じている。)であるという本質を知ってか知らずか、私以外の全員が悪魔に魂を売ってしまったソドムの市状態だった。

この時点で沼津のプログレは終わりを遂げた。(おそらく永久に終わった。)

 

 その直後、沼津のドン、穴久保清氏が静岡へ転勤。半年後、生まれた地以外の意味を持たなくなった場所を捨て、またクリムゾンをほぼ終了しフリップ&イーノの感性を研究していた事もあり、まどろみを解散し静岡へ住居を移した。穴久保氏の元でアルバイトをしながらこの地でのバンド活動再開をうかがっていた。当時の静岡の音楽シーンは沼津に比べレベルがかなり低いようだった。(注:自分から見た現状でありそれが全てでは決してない...)見栄えや流行で音楽に接している者が多く見受けられ、真剣に取り組んでいるものはほんの一握りだった。

 
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プログレとの出会い

 

 その年の冬、ちゃんちゃんこ(ゲゲゲの鬼太郎が着てるやつ)を着て紙袋を下げた、怪しい風貌の青年が楽器売り場辺りをうろついていた。髪もボサボサで角張ったメガネを掛けている。ズボンもつんつるてんで野暮ったい。「やれやれ...。」と思いつつ話をすると、彼は静大の学生でベースやキーボードで多重録音しているという。

それが久野真澄氏との出会いだった。自分としてはその独特な風貌にまず興味を持った。大学生というところにも引かれた。私には彼の口から飛び出すバンド名はほとんど判らなかった。

 

 それからは殆ど毎日、古びた自転車にLPをいっぱい積んで私のアパートに顔を出すようになった。持ってくるLPはすべてプログレだった。中でも心に残っているのはジェントル・ジャイアントの「フリーハンド」、アレアやマウロ・パガーニの中近東サウンド、エニドの「Aerie Faerie Nonsense」、そしてザッパの「ライブ・イン・ニューヨーク」。ジェネシスの素晴しさを納得し「マグマ・ライブ」のバイタリティーに圧倒されたものだった。彼は定期的に東京へ買い出しに行き、そして私のアパートへ持って来る生活が続いた。彼の部屋には膨大な量のLPが無造作に置いてあった。

 
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第 2 期

美狂乱結成

1978

 

 その頃、私は半年以上のブランクでそろそろ動き出したい気持ちだった。ベーシスト久野の同僚からキーボーディストを選択。バイオリニストも彼が連れてきた。(初代美狂乱の杉田孝子氏だった。)ドラマーが見つからずまどろみの長沢氏に声をかけた。彼は快く応じてくれてリハーサルの度に熱海から駆けつけた。

2〜3回のライブでは創生期美狂乱の時の「止まった時計」にクリムゾンのエピタフをくっつけたヤツとかドイツのSFFの曲とか、クリムゾンにこだわらない選曲で臨んだ。

 
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第 3 期

美狂乱結成

 

 その後、諸事情によりドラマー長沢氏が突然脱退したところへ穴久保氏が、ヤマハ主催の「Wind&Waveコンテスト」出場の話を持ってきた。

そのコンテストは、以前から地元で開催していた「ポピュラーソング・コンテスト(通称ポップコン)」に取って代わる、バンドを主体にしたコンテストでヤマハではかなり力を入れる予定だったらしく、静岡県の広範囲な地域で予選会を開催していた。

 美狂乱は、掛川つま恋での決勝大会に予選会なしで出場できる話だったが、長沢氏の突然の脱退で久野氏と大いに悩んだ。静岡のアパートで作り上げた「警告」を演奏することは決まっていたのだが...。

 

 メンバーとしては当時のキーボーディスト河合氏に変わりベースの久野氏がキーボードに廻り、ベーシストには活動を共にしてきた吉永伸二氏を呼び寄せた。あとはドラマーだった。穴久保氏は沼津の頃の知り合いだった佐藤正治氏と連絡を取りみんなで東京の彼のアパートへ会いに行った。

彼は当時クロスウインドというフュージョンバンドで活躍していて、ギタリスト伊藤銀次氏のお気に入りドラマーだった。私としては彼がアフリカン・リズムが好きというところが気に入った。つま恋のコンテストだけの参加ということで一応了解を取り静岡へリハーサルに来てもらった。彼とのリハーサルで感じたことは、長沢氏がスマートな都会的指向なら、佐藤氏は土着民のそれだった。荒削りだがテクニック的には何も問題はなかった。のみこみも早く直ぐに曲構成を理解した。

 この時点で須磨、吉永、佐藤、久野、杉田の第3期美狂乱が始まった。

 1週間ほどの短期間のリハーサルで何とか「警告」を仕上げた。

 

 本番では30バンド程が出演。フュージョン、レゲエ、ブルース、ハードロック等それぞれ個性的なバンドが腕を競った。

美狂乱の演奏は、華やかなオープンステージでの夏という季節的解放感をぶっつぶした内容だったが、それでも聴衆や審査員の人達には強烈な印象を残したようでギタリスト特別賞を頂いた。私としてはそんなことはどうでもよいのだが、このメンバーの可能性を大いに実感した。佐藤正治氏にしても興味が湧いたらしく、東京から静岡へ居を移し本腰を入れて取り組みだした。

 
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東京進出

 

 1978年フールズメイト主催の「プログレッシブ・ロック・コンサート」開催。お茶の水全電通ホールでの美狂乱初の(第1期の頃にA・ロック・コンテストに美狂乱名義で出場しているが)東京コンサートだった。

当時としてはかなりの高水準のバンドが多数出演。新月の演奏とメロトロンは印象的だったし、ガラパゴスのフュージョンを超えた演奏内容には感心した。また、後日お邪魔したフールズメイトの編集長北村氏の未来を見つめる鋭い目つきに”東京”の大きさを感じたものだった。

 
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ライブ活動

1979-1980

 

「プログレッシブ・ロック・コンサート」ではその後の美狂乱に大きな進歩を与えてくれた人物2人と出会った。

岩井周三氏と高見博史氏である。

 岩井氏は当時吉祥寺にあるライブハウス「シルバーエレファント」の店長として、何か業界に新風を吹き込もうとしていた。とりあえず3ヵ月に1度位の出演を承諾し、マネージャーとして都内のライブハウスの出演交渉を担当してもらうことになった。静岡にはライブハウスは殆ど無く活動の場は東京都内に限定されていた状況で1年ほど順調に「シルエレ」に出演。考えられる実験的音楽形態を全て試させてもらい充実したライブを行うことができた。内容といえばひとえに即興演奏。クリムゾンのバイタリティを参考に良い演奏を追及することが目的だった。

 もう一人の重要人物、高見氏はプログレの評論家として有名で、当時キングレコード内のプログレレーベル”ネクサス”を発足させて日本のプログレバンドを世界に進出させようと躍起になっていた。

 
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  レコ−ディング準備  

 1979年、「新月」の1stLP発売。本格的な日本のプログレの幕開けだった。久野氏は「美狂乱も70年代にLPを出しておきたかった」と言った事は今でもよく覚えている。私たちは高見氏の勧めで「アインソフ」のレコーディングを見学させてもらうことになりキングレコードの音羽スタジオへお邪魔した。緊張感がひしひしと伝わる演奏内容だったことはよく覚えている。

 

 当時”ネクサス”にいたのは、ノベラ、アインソフ、ダダの3バンドで、各々独自の音楽感を貫く勢いを持った個性的なバンドばかりだった。美狂乱はその時点では”ネクサス”と契約する真意を図りかねていたので高見氏への返事は保留にしてもらい、とにかく地元でのリハーサル・レコーディングを実行した。

穴久保氏の協力で’すみや’のスタジオの空時間を利用し少しずつ録音を始め本番への準備を重ねた。

 

 ところがレコーディング中、ベースの吉永氏とバイオリンの杉田氏が個人的理由により脱退。大きな痛手を受けたがそれでもレコーディングは私、佐藤氏、久野氏の3人で進め「警告」「都市の情景」の前半パート、「タバスコ」、「狂part2」を完成させた。このメンバーで正式レコーディングをしていたらきっと凄い物ができたに違いないと悔やまれる...。その後ベーシスト吉永の穴埋めで、当時美狂乱の弟バンドだった’乱気流’の白鳥正英氏を迎え2度ほどライブを行った。

 
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封印

1981

   この時期、私は現在の妻と結婚したことで美狂乱は一気に下降線を辿り始めた。音楽で生計は立てられず大いに悩んだ。佐藤氏は「東京へ出てプロになる」という強い意思があったが、私としては中途半端な状態で音楽をやって行けず結局、美狂乱を封印する事を選んだ。この時点で美狂乱は事実上解散、佐藤氏は久野氏とともに東京へ旅だった。1981年の事であった。  
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  レコ−ディング  

 数ヵ月後、高見氏から心配の連絡が入った。私としては個人的歴史の1ページを記録するという、ただそれだけの理由で”ネクサス”での2年間に3枚のレコーディングを承諾した。しかし、佐藤氏、久野氏は故意に呼ばなかった。理由は真剣に音楽に取り組んでいる彼等に対して大変失礼であると感じたからであった。

 多重録音に専念していた長沢氏に声をかけドラム長沢、ベース白鳥、私の3人による第4期美狂乱を結成。3ヵ月ほどリハーサルに明け暮れ、遂に音羽スタジオでのレコーディングに辿り着いた。

 

プロデューサーには「トランザム」という一流ポップスバンドのドラマーで数十年のキャリアを持つ有名なチト河内氏を迎えた。彼との出会いは、以前私の実姉がその「トランザム」の専属バック・ボーカリストだったことで紹介され意気投合した経緯があった。

 

 レコーディングでは全ての曲がほぼ1発でOKとなり時間はそれほどかからなかった。チト河内氏の紹介で芸大の学生だったバイオリニストの中西俊博氏やHeavyMetalArmyのキーボーディスト中島優貴氏がサポートしてくれた。特に印象深かったのは中西氏とのインプロヴィゼイションでの掛け合いと「シンシア」でのリコーダー奏者、小出道也氏の天使のように美しい音色だった。

 
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美狂乱1st

発 売

1982

 

 1982年、フールズメイト誌の北村氏、マーキー・ムーン誌の山崎氏にライナーノーツを担当してもらい、一応格好はついた内容で「美狂乱1st」発売。

当初の目的はほぼ達成されたが何とも心もとない気持ちだった。東京、大阪と数回ライブをこなしそれなりにアピールできたステージだったが精神的にはかなり行き詰まった思いは断ち切れなかった。

 

 結局80年代の美狂乱のライブは大阪バーボンハウスが最後だった。それでも音楽的アイデアは自分なりにいくつか持っていたので、それを具体化しようと部屋に篭って多重録音を真剣に始め出した。久野氏から借り受けていたシーケンサーでドラムパートを打ち込みシンセサイザー、メロトロン、ベース、ギターを4chのオープンデッキで録音し2ndアルバムの構想を固めていった。

 
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2nd 構 想

 

 ArtZoidやUniverse Zeroなどのチェンバーロック(当時の彼等の音楽は今でも私にとって重要な要素を秘めている)や映画音楽(特にジェリー・ゴールドスミスやその後開花するアラン・シルベストリ等のパーカッシヴなリズム主体の作曲家)からのインスピレーションを参考に、コツコツと自宅で多重録音しながら何とか組曲”乱”を仕上げた。

 そのテープを持って1stの時のプロデューサー、チト河内氏にお伺いを立ててみた。彼は、「おもしろいエンジニアがいるから彼にミックスダウンをさせてみよう」という事になり2週間後、そのエンジニア”サカゲン”氏 に会って彼の勤めるスタジオでそのミックスを聞かせていただいた。

 

 驚く程ワイルドな音作りに感激し、美狂乱2ndの方向性がはっきりと見えた瞬間だった。同時にバンド主体の考え方からサウンドや作曲主体の考え方に自分が変化している事も、そのサカゲン氏のミックスが教えてくれたと言えるだろう。

 
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パララックス

発 売

1983

 

 本レコーディングは、昨年の1stと同じ時期に開始し、同じ時期に終了し、同じ時期に発売された。前述の大阪バーボンハウスでのラストライブは、私達バンド側と聴衆が一体となった感じの、気持ちの良い体験をさせていただいた。(ノベラのギタリスト平山氏が花束持参で応援に駆けつけてくれた事も嬉しかった。)

 それから、1994年10月までバンドとしての美狂乱は事実上活動停止状態となるがその間、マーキーからライブテイクの発掘により2枚のLPと3枚のCDが発売されたが、その時の状況は思い出せない...。

 
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  ザッパについて  

 フランク・ザッパは私にとって究極の存在だ。クラシックとロックという、一見対極にある音楽を徹底したリアリズムを駆使して使い分ける信じられない才能を持っている。

 

 ザッパとの出会いは中学2年生で住居を移した直後、姉の同級生がベスト盤のLP「MotherMania」を持って来て、新調したオーディオセットで聞いたのが最初だった。持って来たお兄さんはフリークだったらしく、目を輝かせて「これが音楽だ!」と言わんばかりに私にいろいろ説明していた。

私の印象としては、旧態然としたサウンドのダーティーな冗談音楽をアメリカの片田舎のロックバンドが夢中で演奏しているといったものだったが、その生活感みたいなものが露骨にリアリティーを持っていた事は良く憶えている。

 しかしその時代、ミュージシャンやバンドがレコード盤を出すという事は大変な名誉で、よほどのモノでなければ実現できないはずなのに、こんな音楽(失礼)でレコードが出せる状況が「何でもアリ」の時代に突入した事を実感させたものでもあった。その時の私には許容範囲を超えた音楽だったため、耐えられずにそそくさと部屋から抜け出したものだった。

 多重録音に専念していた1985年頃(だったと思う)マザーズレコードのDMで、ケント・ナガノ指揮ロンドン交響楽団によるザッパのLPを目にした。あのダーティーな冗談音楽を書く人間からはとても想像できない作曲能力!しかも、指揮者が新進気鋭のケント・ナガノときたらなおさらで、それは高貴なシリアスミュージック以外の何ものでもない、その分野を知り尽くしたシェーンベルク等の現代音楽家と変わらない楽曲群がそこにあった。

歴史に名を残したピエール・ブーレーズ編曲指揮のアルバム「Boules Conducts Zappa」やハープシコードによる室内楽をシンクラヴィアで演奏させたアルバム「Francesco Zappa」、クラシックとロックを根底から同居させたようなアルバム「200Motels」(!)、同様の楽曲「The Adventures Of Greggery Peccary」、彼の最後のアルバム「YellowShark」等を何度も聞いているうちに、音楽の進化すべき方向性が見えた思いがした。

 同時にダーティーな部分も改めて聞き直すと、それは冗談音楽などではない、現実的な苦悩や快楽を基にした歌詞と相まって、業界特有の見栄やカッコ良さなどの浮かれた部分を排除した、実に人間的な魂(リアリズム)そのものを訴えた極上のロックミュージックだった事を理解できた。

 

 光と影、静と動の2面性を追求したロバート・フリップのキングクリムゾン同様、リアリズムで結ばれたクラシックミュージックとロックミュージックという2面性が同居するザッパの音楽は、これからも私にとって追い求めていきたい究極の存在なのだ。